奪り返した居場所。夢の跡。
あの日々こそが幻であったかのように全ては空虚で。

見覚えのある知らない場所。


伸ばされた手を、ふりほどくことなど。


 叩扉の音に、筆を動かしていた手を止めて返事をする。
「失礼しまーす」
「・・・カイル」
 足音が違う。衣擦れの音が違う。
 ああ、やはり。小さな呟きは塗りつぶされて消える。
 振り返れば予想通り、明るい色の軽装に着替えたカイルが立っている。
「カイルも、行ってしまうんだね」
 彼の言葉を待つ事が出来なかった。直接、聞きたくなかった。
 別れの言葉など。
「・・・はい、俺は、俺にはもう女王騎士としての資格はありません」
 だから、と続けようとしたカイルの唇を、金と黒の手甲をはめた手でそっと押さえてファルーシュは首を振った。
「いい、カイルの言いたい事は分かってる。言うべきだろうとも分かってる、形式上はね。でも、僕は聞きたくない」
 目を、顔を見る事が出来ず、俯いたまま、出来る限り感情のこもらないよう言葉を口に上らせる。
「王子、」
「これは単なる僕の我が儘だ。だけど頼む、カイル。僕には責める権利も許す権利も、そんなものはありはしないんだ」
 女王騎士でありながら、守るべき女王を守れなかった。軽薄に見せて、その実カイルは最も深くそれに囚われていたようにファルーシュは感じた。それはつまり女王を、ひいては自分たち家族を最も愛してくれていたということだと思う。
『おめおめと生き延びてしまった』
 かつてそう嘆いたガレオンの言葉は、そのままカイルの心ではなかったか。
 ガレオンはすでに太陽宮を辞し、ゲオルグはとうにこの国を発っている。リムスレーアの女王騎士はミアキスと、リオンとファルーシュの三人。誰も旅立とうとする彼らを止めることなど出来なかった。
 今も、また。
「・・・ごめん、僕は、父上のような大きな器は持ってない」
 彼らを見送る事は出来ても、送り出す事など出来はしない。
 耐えられない。
 それでも引き止めることだけはしてはいけないと思うから。
「いいえ、王子」
 伸ばしていた指先に声に合わせて吐息がかかる。その感触にふと引いた手を思いの外強い力で掴まれて、ファルーシュはカイルを見た。
 ファルーシュのそれより、ずっと大きく、かさついて堅い手指。
 華やかな見た目や軽薄な口調に騙される事も多かったが、彼もフェリドやゲオルグのように、確固たる己を持った武人だった。父の部下、不良騎士、大事な友人、
 頼れる、
「王子は、お強いです。今だって、立派に騎士長として勤め上げておられる」
 言葉の端に、責めるような色が混ざるのはなぜだろう。
 指を確かめるように手が絡んで、離せと意思表示に引いてみても、意に介さず。
「何、言って・・・」
「俺に分からないと思うんですかー?今にも泣きそうな目、してますよ」
「っそれを、お前が言うのか!?」
 ファルーシュの心の内を、はっきり見透かしたような言い方。必死でこらえようとしていたものをあっさり突き崩されて膨れた、怒りとも悲しみともつかない感情のままにファルーシュは手を振り払おうとした。
 カイルはその動きを逆手にとって、するりと体を寄せる。片手で易々とファルーシュの体を抱え込み、掴んだままのファルーシュの手を自身の唇にあてて、音を立てて口づけた。
「なにっ・・・?」
 離れようとすればますます背にまわった腕の力は強まり、カイルの胸に頬を押しつけるような状態のファルーシュには、カイルの表情もその意図するところも掴めない。だが流石に温かく濡れた感触が指先に広がれば、カイルが普段の彼でないことは分かる。
「やめろ、カイル!」
 掴まれていない腕を突っ張って、制止の声を上げる。と、背中の圧迫が消えファルーシュは体を引き起こして問いただそうと口を開く。
 目の前に、カイルの顔が迫っていた。離れたと思った腕はファルーシュの後頭部に強くそえられ。
 唇に触れた柔らかな感触は、すぐに温かく濡れた舌の動きに消える。
「んんっ! ・・・っぅん、んん・・・!」
 口内を動き回る舌の生々しさとそれからもたらされる未知の感覚に、抵抗しようとしてもそれを楽々と上回る力で押さえこまれ、息継ぎもろくに出来ず意識がかすむ。
 くぐもって響く水音の意味を考えるより、力の抜けた手から離れたカイルのそれが、首を伝って襟から侵入しようとする動きに咄嗟に反応する。
「ぁむ、ゃっ・・・いやだぁっ!!」
 渾身の力を込めた拒絶でやっと腕から逃れたファルーシュは、そのままたたらを踏んで床に座り込む。口元を襟を手で覆って、荒く息を吐く。視界に入る皮のブーツが、躊躇うように動くのを見て、震える声を整える事も出来ず言い放つ。
「近寄るな」
 ぴたりと止まる動き。深く息を吸って、心を落ち着けようとするがそれを待つ事無く言葉が落ちて来た。
「俺のものになってください」
 言われた言葉を、その意味を考えるより先に、声の響きがあまりに彼らしくなく、思わずファルーシュは顔を上げる。カイルの表情は逆光で見えない。
「なに、を」
「姫様よりも、国よりも、俺を」
 選んで下さい。
「ファルーシュ様」


 背を、震えが走った。

 それが何の感情に因るものか、溢れた想いが多すぎて分からない。
 けれど。


「・・・違うね、カイル」
 小さく、小さく呟いた。音の無い部屋でそれは確かに彼の耳にも届いただろう。唇を引き上げたつもりだったが、果たして笑みに見えただろうか。
 カイルが微かに笑った気配がした。それは長年の付き合いだからこそ気付く空気の揺れのような些細なものだったけれど、お互い間違うはずもなく。
「俺は、こういう意味で王子がすきでしたよ。・・・いつからか、覚えてませんけど」
 目線を合わせようとカイルが動けば、明らかに怯えを含ませて震えたファルーシュに、苦笑して止めるしかなかった。
「でも、姫様が大事で、国が大事で、自分を顧みない、・・・真っ直ぐなあなたに、」

 女王の器を見た。どうしようもなく惹かれた。けれど彼、・・・彼女はいつでも手の届く側に居て。

「ファレナの未来を見ました。誇らしかった」

 そうしたら、誰にも渡したくなかった。手に入れたくなってしまった。


「だから、」


 手の届かない、眩しく愛しい貴方で。

 今、ここで最後のお別れを。自分に決別を。

 何も言えず、呆然とカイルを見上げるファルーシュに、ゆっくりと正式の騎士の礼を行って、カイルは部屋を辞す為に扉へ向かう。躊躇い無く歩を進める彼に、何かしなければとファルーシュは手を伸ばしてみるものの、その動きはあまりに遅く、開いた扉は金の頭を飲み込んで閉じた。

 父の部下、不良騎士、大事な友人、頼れる、
 何、だったのだろう。

 遠く離れていく、規則正しい足音は今までとなにひとつ変わらず。


 ただ、自分だけが何かを間違っていたのだとファルーシュは思った。


***

5月13日発行予定の本「ストレガ」の序章です。シリアスです。
部数をあんまり刷らない方向ですのでお気に召した方は「ヒトコト」から予約される事をオススメします。
予約頂いた方には小冊子でこれの番外的な話の本をつける・・・予定・・・です・・・・