「…いつまで死んでるの?」
 呆れたような涼やかな声のあと、優しく包み込む風の波動が来た。清涼感溢れる緑の風は、不快感を幾分やわらげる。
 リィはやっと袋から顔を離した。
「ああ、助かった…マジで」
「相当重症だね、最上位だよ、今の紋章」
 人一人を充分に癒せるはずの下位紋章では、全く歯が立たなかった。ふぅ、と息をついてファルーシュは紋章のついた手をひらひらと振った。
 とりあえず袋から解放され、水を呷ったリィは机に突っ伏した。
「俺はもう二度と竜には乗らない…」
「うん、そうか、竜にも迷惑だろうしね! そうした方がいいよ」
 一方のティルは別室で着替え中だ。
 貴賓室は広い。リィとファルーシュとカイル、護衛と監視にアレンとグレンシール、別室にティル、そして世話役の女官たちが居ても、狭くならない。
「殿下は」
「はい?」
「詠唱なしに上位紋章を扱えるのですか」
 うーわー、やっぱり武官だなー。ファルーシュは笑顔で思った。 聞くべきことはそれじゃねーだろ。
「殿下はどっちかっていうと剣より棍ですよねー、紋章はほぼどれでも大丈夫だし」
「ああ、剣は実戦にはほとんど使ってない」
 黙って任務遂行(ティルの護衛)していたアレンだったが、さすがに気になるらしい、声を出してくる。
「ではあの演舞は?」
「あれは演舞だから、実戦用じゃない。特に水の型は、見世物だよ」
「ゲージュツってやつです。襷と、流線的な剣舞で、水の流れを表してー、水の国ファレナを想うんですよー。そのえーと、ホーヨクな流れとか、時に牙をむく激流とか」
「豊沃、な。なんだ割と覚えてるんじゃないか」


「何の話をしてるんだ…ですか」
 着替えを終えたティルが扉を開けて、注意を引く。面子が入り乱れて、どこまで敬語を使うべきか悩んだ。存外気が小さい。ファルーシュが相手では仕方がないが。
「殿下、状況はどうなってるんです?」
 とみせかけて誰もが聞けずにいたことを、さっくり聞いた。気が小さいのか大胆なのか、ハッキリしろ。
「ああ、レパント殿にはおおまかないきさつを話しておいた。正直、相手がこれ以上打って出てくることはないと思うんだけどね。むしろ予想外の展開に冷や汗が滝のように流れてるだろうね。単なる暗殺失敗なら黙っておけば済んだのに、成功したつもりで事を荒立ててみればティルは生きてるし。…レパント殿が跡をたどれば一網打尽だろう」
「…糸が、ファレナまで繋がっていたらどうするんです?」
 空気がちりっと震えた。アレンもグレンシールも、誰もが瞳を険しくする中、ファレナの二人だけが穏やかに笑む。
「僕らが、あの阿呆をこれ以上のさばらせると思うか?」
「冗談でしょー、これ幸い、徹底的に叩き潰しますー」
 ふふ、ついでだからあの貴族も癒着を理由に引きずり出してやろうか。
 いいんじゃないですかー、適当に書類準備すれば物的証拠でしょー。
 …嘲笑だった。ものすごく黒かった。
 トラン勢は、ファレナの闇を見たと思った。群島代表は死んだように動かない、まだ。


「ティルは、これからどこへ?」

 その質問は唐突すぎて、ティルは一瞬何のことだが分からず、ぽかんと言葉の主を見た。
 問いかけたファルーシュの方は、紅茶のカップに入れたスプーンをくるくるとかき混ぜて優雅にティータイムを楽しんでいる。
 武官組は闘技論で盛り上がっている。リィはようやく復活したのか、まんじゅうにむさぼりついていた。
「どこ…ひとまず家に戻ろうかと」
「うん、その後」
「…さぁ、まだ何も決めてないんですけど、」
「…そうか」
 うん、と小さく頷いて、それきりファルーシュは黙り込んだ。
 夕暮れに向かう空は、沈みだした西日の眩しい光を降らす。貴賓室の大きく切り取られた窓から射し込むそれが、絵画のように時間を切り取った。
この人、黙ってたらホント美人だよな! とティルは思った。


***
演舞とか、ホント捏造すみません。