「さぁカイル、覚悟は出来ているか?」
「・・・準備、じゃないんですね・・・」

 いつになく溌剌とした表情で自身の右手をためつすがめつしていたファルーシュは、いささかげっそりした感のあるカイルの声に大げさに肩をすくめた。
「何だ、血の気は余っているんじゃないのか?」
「やー、まさかこういう段取りだとは思ってなかったもので・・・」
 愛剣を腰に差し、綺麗に整えられた旅装束を着たカイルは、その上に分厚いマントを羽織っていた。それもきっちり2枚。
 ファルーシュも同じ出立ちで、それは今のトランの気候を考えれば奇妙な服装だ。だが二人にとっては必需品だった。
「仕方ない、ファレナのように河が巡ってるわけでもないようだからな。地の利はないし、時間もない」
 人目を避けて、街道を離れた所でファルーシュが右手の紋章を発動させる。
 薄い緑の光は風の上級紋章、自分だけならともかくカイルも共に移動するとなると相当の魔力を消費しそうだが、それ以外に隠密に動ける術を持たないのだからしょうがない。
 ふぅ、と体の浮かぶ感覚に眉間にしわを寄せたカイルが小さく呻いた。
「飛ばすぞ」
 言葉とともに紋章の光が一層濃く広がり、強風が吹き上がった。
「うわ、さむっ!」
 金髪が広がり泳ぐにまかせたカイルが悲鳴に似た声を上げるのが聞こえた。
 雲をすぐ下に見る上空は空気も薄く、気温も息が凍る程低い。空気の方は紋章でなんとか出来るにしても気温だけはどうにもならない。広がり空気を含もうとするマントを押さえ込んで、カイルは地図で見た目的地を探す。
山に囲まれた水晶のきらめく谷。
 風脈を遁行すれば時間も寒さも関係ないのだが、それには目的地を知っていることが第一条件となる。何より二人分は大きく魔力を削られるので、物騒な行き先には向かない。
吐いた息が白く凍るのを横目にファルーシュも眼下の地上を見渡す。すぐさま横で声があがった。
「あれじゃないですか?あそこ、うす蒼いような、白っぽいとこ」
 山々の間、ちょうど谷のような所が蒼いような白いような光を放っていた。湖にしては上下の起伏すらあるように見える。話に聞いた方向とも合っている。
「よし、降りよう」
 体勢を崩すなよ、とカイルに声を掛け、高度を下げる。みるみる近づいてくるその谷は、硬質な色とりどりの光を反射し、そこだけ世界から切り取られたような幻想的な雰囲気を見せている。太陽の下でなければドワーフの見つけた原石の鉱脈のようだと思いながらファルーシュは目を凝らした。空気に温度が戻ってくる。
 カイルが不安定な体勢ながら剣を抜いた。理由は分かりきっている。谷の中心、小さな影がめまぐるしく動き回っている。予想通りの展開だった。更に高度が下がる。
 人影の顔が視認出来る高さで一度降下をやめ、息を整えた。カイルも愛剣を構え直し、姿勢を整える。
「カイル、この高さ、いけるか?」
「余裕ですよ、ファル」
「水」
 紋章を意図させる端的な言葉にカイルのほうが大丈夫なのかとファルーシュに視線を向けた。心外な、という不敵な表情を浮かべたファルーシュが、薄く光っていた紋章の光をより濃く明るくする。
 眼下の戦闘を見ていたカイルがぽつりと言葉を落とした。
「あの動き、幽世ですね」
「・・・ああ」
 ティルとリィの応戦している刺客の一人が常人にあらざる動きで咆哮をあげ、リィを弾き飛ばした。
「いくぞーーー退がれっ!!」
 浮遊に使っていた魔力も全て攻撃に移し、落下と共にファルーシュは叫んだ。カイルも水の上級紋章を発動させ、全てを凍らせる氷嵐が吹き降りた。

***
先達の、腕が鳴ります。(笑)
刺客たちは遁行してきたんじゃないかな?戦時下は暗躍がしやすいですから。